こんにちはネリゴです。
さっそく失礼ですが、南島原市と聞いても、『何かスポットあったっけ?』という印象が強かったのです。
探検がてら南島原市に行ってみると、いろいろとスポットを見つけることができましたので、紹介します。
気軽に知らないことを知ることができるので、旅ってすごくいいです!
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・日野江城跡
戦国時代に肥前の有力キリシタン大名であった有馬氏が居城していた城の跡です。
城跡からは、貿易の軌跡を確認することができる陶磁器や豊臣秀吉との関係を語る金箔瓦が出土しています。
1982年に、日野江城跡は日本キリスト教史における初期の中心地として、国の史跡に指定されました。
駐車場に車を停め、階段を上っていくのですが、 城跡全体的にあまり整備されていないので、気をつけて上る必要があります。
上った先には、 原城跡や島原湾(有明海)を見下ろすことができ、素晴らしい風景が広がっています。
日野江城跡 / 長崎県南島原市北有馬町戊2444
・原城跡
原城は1599年~1604年頃に、キリシタン大名の有馬晴信によって築かれた城郭とされています。
有馬氏本城である日野江城が手狭で戦闘に不向きだったため、新たに巨大な原城が築城されました。
1637年に勃発した 島原・天草一揆(島原の乱)の終焉の地 が原城跡なのです。
度重なる飢饉や領主の弾圧に耐えかね、2万を超える農民が蜂起し、原城に籠城しました。一揆勢のほとんどがキリシタンだったといいます。
島原・天草一揆の総大将とされている人物が天草四郎です。一揆勃発時には、若干15歳の少年でしたが、十字架を掲げて戦闘を指揮していたと伝えられています。
しかし、幕府軍による原城への総攻撃を受けて、細川藩の家臣によって討ち取られました。
この一揆をきっかけに江戸幕府は、鎖国を完成させました。潜伏キリシタンは、自分たちで信仰を続けることを余儀なくされました。
発掘調査では、一揆勢から立て籠もった城内から、 メダイや十字架などの信仰具とともに、すごい数の人骨が出土したそうです。
対岸の天草地方がうっすら見えます。すごく開けた場所なので、開放感があります。
駐車場は、国道251号線沿いか大手口駐車場のどちらかを利用します。 ※原城の本丸付近には、駐車場がありません。
私は国道沿いの駐車場に車を停め、 本丸まで15~20分歩きました。
原城跡を目指して歩いている途中に、すごく素敵な景色が待っています。畑と海のコントラストや道の向こうに見える雲仙普賢岳が絶景です。
原城跡 / 長崎県南島原市南有馬町
・口之津灯台
明治13年5月10日に初点灯し、明治時代に 三池炭鉱で採掘された石炭の積出港として栄えた口之津港 の入り江の入り口にあります。
当時、三池炭鉱は有明海の干満差のため、海上輸送に大きな制約がありました。そこで、石炭を大牟田川から口之津港まで運び、 大型の汽船に載せ替えて香港や上海などの海外に輸出していました。
明治41年に、三池港が開設され、口之津港は輸出港としての機能がなくなりました。
口之津港を出入りする船の安全航行を見守った歴史ある灯台なのです。
シーサイドパークに駐車場がありますので、そちらに車を停め、灯台に向けて歩いていきます。途中、道悪な場所がありますので、慎重に進みましょう!
林を抜けると、灯台が目の前に現れます。 駐車場から灯台まで約5分です。
傾いた太陽と天草下島と畑です。これを絶景と呼ばずして、何と呼びましょうか!笑
口之津灯台 / 長崎県南島原市口之津町65
・南蛮船来航之地
1567年に3隻の南蛮船が口之津港に入港しました。
口之津が寄港地に選ばれた理由は…
以上の理由から、布教活動・地理的・交易の実績があったことから選ばれたのです。
当時の口之津は、日本全国のキリスト教布教の中心地となり、南蛮貿易の拠点となりました。
現在この場所は、陸地と化していますが、 かつて口之津の入り江の最も奥まった場所だったのです。
16世紀後半に南蛮船が来航した地域と推定されることから、『南蛮船来航之地』として史跡に指定されています。
特に、景色が良いわけではないのですが、石碑が好きな人にはおすすめのスポットです。笑
口之津開田公園の中に駐車場と南蛮船来航之地の石碑があります。
南蛮船来航之地 / 長崎県南島原市口之津町4101
・まとめ
南島原市で見つけたスポットを紹介してきました。
つくづく思うことは、 日本ってどこに行っても良い風景に出会えますよね。 素晴らしい!
大事なことなので、もう一度!気軽に知らないことを知ることができるので、旅ってすごくいいです!
『何かあるのかな?』と思う場所で、お気に入りの場所を見つける探検をしてみましょう!
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