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丸山千枚田の石積みが語る再生の物語:崩壊の危機を越えた千枚の棚田

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丸山千枚田の石積みが語る再生の物語:崩壊の危機を越えた千枚の棚田

<!-- Meta Description: 三重県熊野市の丸山千枚田。530枚まで減った棚田が、住民の復田と石積みの保全で約1,340枚まで戻った歴史を紹介します。 -->

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慶長から現代へ:丸山千枚田が歩んだ2,240枚の記憶

三重県熊野市紀和町、白倉山の山麓に広がる丸山千枚田は、斜面そのものを農地へ変えた棚田である。標高90メートルから250メートルまで、高低差にして160メートル。そこに現在、約1,340枚の小さな田が連なっている。

斜面を見上げたとき、最初に目に入るのは緑や水面の美しさかもしれない。しかし、丸山千枚田の本質は、景色の奥にある。水をためる一枚一枚の田、その境界を支える石垣、斜面を横切る水路。目の前の風景は、自然にできたものではなく、地形を読み、石を積み、土を運び、使い続けることで維持されてきた農業の構造物だ。

丸山千枚田の規模を知るうえで重要なのが、慶長6年、1601年の記録である。浅野幸長による検地帳には、この地域に2,240枚の田があったと記されている。総面積は約7.2ヘクタール。現在の約1,340枚という数字だけを見ても、十分に大規模な棚田に思える。だが、記録に残る過去の丸山千枚田には、それを大きく上回る数の田が斜面いっぱいに広がっていた。

この2,240枚は、単に田んぼの数を数えた記録ではない。限られた平地を補うため、住民が山の斜面を細かく区切り、水を一枚ずつ配分してきたことを示す記録でもある。大きな田を一面つくるのではなく、地形の起伏に合わせて小さな田を積み重ねる。その方法を選ばざるを得なかったともいえるが、結果として生まれたのは、機械化された平地の農地とは異なる精密な土地利用だった。

なお、検地帳に記された年は、棚田が築かれ始めた年を示すものではない。丸山千枚田がいつから現在のような姿へ整えられていったのかを、ひとつの起点や築造期間で断定することはできない。確認できるのは、少なくとも1601年の時点で、すでにこの地域に2,240枚の田が存在していたという事実である。

一枚あたりの平均面積は約10坪、約33平方メートル。なかには約0.5平方メートルほどの小さな田もある。田としてはあまりに小さく見える区画であっても、そこに水を引き、土を保ち、稲を育てる仕組みが組み込まれている。小さな田が一枚あるということは、その周囲に石垣や畦、水路があり、さらに上段と下段をつなぐ水の流れがあるということでもある。

だから、丸山千枚田の歴史を田の枚数だけで追うことはできない。2,240枚という記録の背後には、斜面に合わせた区画、水を逃がさない畦、土を受け止める石積み、そして毎年の耕作があった。田が使われ続けることで、棚田全体の形も保たれてきたのである。

ところが、長く続いてきた仕組みは、社会の変化によって大きく揺らいだ。1990年代初頭、丸山千枚田に残されていた田は530枚まで減少していた。かつて2,240枚と記録された田のうち、耕作される区画が大きく減ったことになる。

ここで考えたいのは、なぜ石垣が崩れたのかということだけではない。なぜ、崩れ始めた石垣を積み直す人がいなくなったのか。なぜ、耕作されない田が増え、草木が斜面を覆うようになったのか。丸山千枚田の衰退は、自然災害だけで説明できるものではない。地域の産業、人口、農業政策の変化が重なり、棚田を維持する力が失われた結果だった。

銅鉱山の閉山が連鎖させた棚田の崩壊

丸山千枚田の保全を考えるとき、1978年の銅鉱山閉山は避けて通れない。紀和町の銅鉱山は地域の雇用を支えていたが、閉山によって生活を支える産業のひとつが失われた。

仕事を求めて若い世代が地域を離れれば、農業の担い手も減る。棚田は平地の大規模農地と違い、作業の効率を上げにくい。斜面に細かく分かれた田では、農機具を自由に動かすことが難しく、田と田の間を移動するだけでも手間がかかる。水の管理も一括ではできず、田ごとに畦や石垣の状態を見なければならない。

さらに、国全体の減反政策によって、米をつくることの収益性も圧迫された。手間のかかる棚田で農業を続ける経済的な理由が弱くなり、後継者不足と高齢化が重なった。棚田を守りたいという思いが残っていても、日々の作業を担う人がいなければ、田は次第に耕作放棄へ向かう。

棚田は、耕作をやめた瞬間に姿を保てなくなる。田面に水が張られなくなれば、土の状態が変わる。畦の草が伸び、雑木が入り込み、根が石垣のすき間を押し広げる。石と石の間に水が回り、雨が降るたびに土が流れ出す。斜面の上部で起きた小さな崩れが、下段の田や水路へ影響することもある。

石垣は、積んだ時点で完成するものではない。水の流れや地盤の変化を見ながら、傷んだ部分を直し、周囲の植生を管理し、田面を使い続けて初めて機能を保つ。農業をやめることは、同時に石垣を保守する作業をやめることでもある。

棚田の一枚が荒れると、影響はその区画だけにとどまらない。上段から流れた水が下段へ集中したり、崩れた土が水路をふさいだりすれば、周囲の田にも負担がかかる。水を受け渡す順番が乱れれば、田植えや稲の生育にも影響する。棚田は小さな田の集合体だが、個別の区画が独立しているわけではない。

そのため、丸山千枚田の減少は単なる耕作面積の縮小ではなかった。農地、石垣、水路、作業道といった複数の要素が、ひとつの仕組みとして少しずつ機能を失っていったのである。

丸山千枚田の崩壊は、石垣だけの問題ではない。地域の産業と担い手が失われたとき、農地を支えていた仕組み全体が揺らいだ。

崩壊の危機を救った「丸山千枚田保存会」の復田活動

転機となったのは、1993年の動きだった。同年4月、旧紀和町が出資し、熊野市ふるさと振興公社の前身にあたる旧・紀和町ふるさと公社が設立された。そして8月23日、全31戸によって「丸山千枚田保存会」が発足する。

31戸という数字は、単なる参加世帯数ではない。過疎化と高齢化が進む集落で、地域に残る全世帯が棚田の再生に関わったことを示している。丸山千枚田の復田は、外部の大規模な工事によって一気に景観を変える取り組みではなかった。住民が斜面に入り、雑木を伐採し、切り株を掘り起こし、崩れた石垣を確認しながら、使える田を少しずつ戻していく作業だった。

総面積約7.2ヘクタール、高低差160メートルの斜面を、31戸で維持する。数字だけを見ても、作業の密度がわかる。年間90日以上の作業日数を費やし、4年間で810枚を復元した。田の数を増やすだけなら、土を入れて平らにする方法も考えられる。しかし、丸山千枚田で行われたのは、地域の地形と過去の区画を読み直しながら、棚田として再び使える状態へ戻す復田だった。

復田で問われたのは、田を戻す順番だった

棚田の再生には、すべてを一度に直せないという現実がある。石垣の状態、斜面の安定性、水の確保、作業道へのアクセスなど、複数の条件を見極めなければならない。上段の田を直しても、水が下段へ流れなければ農地として機能しない。反対に、下段だけを整備しても、上から土砂や水が流れ込めば維持できない。

復田は、田の数を増やす作業であると同時に、斜面全体の水の流れを再びつなぐ作業でもある。石垣を積み直し、畦を整え、水路を確保する。作業のどこか一つだけを直しても、棚田全体は戻らない。

復田の現場では、過去の形をそのまま再現することよりも、現在の条件で耕作を続けられるかどうかが問われる。人が入れる作業道があるか、補修する石材を確保できるか、草刈りや水管理を継続できるか。目立つ石垣だけを新しくしても、周辺の管理が止まれば、再び崩壊へ向かう。

1994年には、「紀和町丸山千枚田条例」が制定された。これは日本初の棚田保存条例とされる。保存会の活動を一時的な取り組みで終わらせず、地域として保全を続ける根拠を制度の中に置いた点に意味がある。

ボランティア活動は、参加者の熱意によって始められる。しかし、長期的に続けるには、活動の主体、行政の関わり、資金の流れ、作業の責任範囲を明確にしなければならない。条例は、丸山千枚田を地域全体で守る対象として位置づける役割を果たした。

その結果、現在の棚田は約1,340枚まで回復している。最少時の530枚と比べれば、約2.5倍に増えたことになる。一方で、慶長期に記録された2,240枚には届いていない。この差を、再生の失敗と見る必要はない。

かつて田だった場所のすべてを、現在の条件で農地へ戻せるとは限らない。杉植林地となった区域など、復元が難しい場所もある。人手や費用を無制限に投入できない以上、維持できる範囲を見極め、崩壊を防ぎながら残すことが重要になる。

全量を過去の姿へ戻すのではなく、将来にわたって守れる規模で再生する。丸山千枚田の保全は、失われたものをただ復元するだけではなく、現在の地域社会に合わせて持続の形を組み直す取り組みでもある。

野面積みと胴木:先人の知恵が宿る石積みの構造

丸山千枚田の景観を支えているのが、斜面を細かく区切る石垣である。整形した石材をモルタルなどで固める練り積みとは違い、ここでは自然石を形のまま積み上げる「野面積み」が用いられている。乱層積みとも呼ばれる技法で、石の大きさや形を見ながら組み合わせる。

野面積みは、石をただ無造作に並べる方法ではない。大きさの異なる石をどこに置くか、石と石の間にできるすき間をどう扱うか、石垣の重さをどのように地盤へ逃がすか。表面から見えない部分にも、積み手の判断がある。

石の表面がそろっていないからこそ、積み上げには一つひとつの調整が必要になる。大きな石を基礎に置き、その周囲を別の石で支え、すき間には小さな石を入れる。石の向きや重なり方が少し変わるだけで、壁全体の安定性も変わる。均一な部材を同じ手順で積む工法とは異なり、現場の石と地盤を読む技術が求められる。

この地域では、花崗岩や砂岩など、さまざまな自然石が地表に現れる。遠方から規格化された石材を運ぶのではなく、身近な石を使い、斜面の条件に合わせて積む。その方法は、利用できる資材が限られていた時代の工夫であると同時に、地形に無理をさせない合理的な工法でもあった。

飛び渡りは、石垣に組み込まれた作業道

石垣をよく見ると、表面から石が部分的に突き出していることがある。これが「飛び渡り」と呼ばれる構造だ。

傾斜の大きい棚田では、田と田の間を移動するだけでも体力を使う。草刈りや稲刈りの際、斜面に足場がなければ作業は難しい。飛び渡りは、石垣の一部として組み込まれながら、作業者が足をかける場にもなる。

石垣は、田を支える壁であると同時に、農作業の動線をつくる設備でもあった。棚田を美しい景観として見るだけでは、この実用性を見落としやすい。斜面の農地では、移動できること、道具を運べること、上段と下段を行き来できることが、耕作を続けるための条件になる。

飛び渡りは、観光客が歩くために後から設けられた設備ではない。棚田を耕す人が、傾斜のある現場で作業を続けるために必要とした構造である。そのため、石垣を見るときは、壁の高さや石の積み方だけでなく、どこに足場が設けられているかにも注目したい。

胴木は、石と地盤の間をつなぐ

地盤が弱い場所や湿った場所では、石垣の下部に丸太を敷くことがある。これが胴木で、主にアカマツが使われる。

石は強度がある一方、地盤のわずかな動きをそのまま受ければ、積み重ねた構造が崩れやすい。木材は石よりも柔軟で、地盤の微細な変化を吸収する役割を担う。石だけで押さえ込むのではなく、石と木を組み合わせて斜面の状態に対応する。

もちろん、木材も永遠に残るわけではない。時間が経てば腐朽するため、胴木を使った石垣も点検と補修が必要になる。ここにも、棚田の保全が一度の工事で終わらない理由がある。素材が異なるため、それぞれの劣化の仕方を見ながら手を入れなければならない。

石垣の補修では、崩れた部分だけを表面から積み直せばよいとは限らない。内部の土が流れていないか、石垣の基礎が沈んでいないか、水が一か所に集中していないかを確認する必要がある。見えている石の列は、斜面の状態を読むための手がかりでもある。

サツキが担う、植生による補強

石垣の上部には、サツキが植えられている。根が土をつなぎ止め、雨による土の流出や崩れを抑える働きを持つ。

石垣を完全に人工物として固めるのではなく、植物の根も含めて斜面を安定させる。これは、石、土、水、植物を別々に扱わない考え方である。自然の力を抑え込むのではなく、植生の働きを取り込みながら農地を維持する。

ただし、植物があればよいという意味ではない。伸びすぎた草木が石垣のすき間へ入り込めば、かえって石を動かすこともある。どの植生を残し、どこを刈るか。その判断も、石積みを長く保つための管理の一部になる。

丸山千枚田の石積みを構成する要素を整理すると、次のようになる。

  • 野面積み:身近な自然石を形に合わせて積み、斜面を段状に区切る。
  • 飛び渡り:石垣から突き出た石を足場として使い、斜面の移動を助ける。
  • 胴木:地盤の弱い場所で丸太を敷き、石垣と地盤の間の動きを調整する。
  • サツキの植栽:根によって土を押さえ、石垣上部の土砂流出を抑える。
  • 水路と畦:上段から下段へ水を導き、各区画で稲作ができる状態を保つ。
飛び渡り、胴木、サツキ。丸山千枚田の石垣は、石だけで成立していない。足場、緩衝材、根による固定までを組み込んだ、農業のための複合構造である。

斜面を訪れたときは、遠くから棚田全体を眺めるだけでなく、石垣の表面にも目を向けたい。大小の石が不規則に並び、ところどころに植物が入り、段ごとに水を受け止めている。その細部に注目すると、丸山千枚田が「自然の絶景」ではなく、人の手がつくった土木遺産でもあることが見えてくる。

オーナー制度で守る日本の原風景:未来へつなぐ棚田の姿

棚田を守るには、地元住民の労働だけでは足りない。石垣の補修、草刈り、水の管理、田植え、稲刈り。作業は季節ごとに続き、収穫期だけ人が集まれば済むものではない。

そこで大きな役割を果たしているのが、1996年に始まった「丸山千枚田オーナー制度」である。年会費は30,000円から33,000円。オーナーには新米10キログラムと農作業体験の機会が提供される。田植えや草刈りなど、棚田の作業に参加しながら、収穫された米を受け取る仕組みだ。

制度の対象となるのは、公社が管理する約4.6ヘクタールと、オーナー田約1.6ヘクタール。都市部など地域外に暮らす人が棚田と関わり、農作業の一部を担うことで、地域の外から保全の力を補う。

この制度を、農産物を購入する仕組みとしてだけ見ると、本質を見誤る。オーナー制度の重要な点は、棚田の維持に必要な人手と関心を、地域外から継続的に確保できることにある。

棚田の価値を知ってもらうだけなら、景観を見に訪れてもらう方法もある。しかし、オーナー制度では、参加者が実際に田へ入り、土に触れ、斜面で作業をする。平地の農地とは異なる足元の不安定さや、草刈りの手間、水管理の細かさを体験できる。そうした経験が、棚田を単なる観光地ではなく、維持されている農地として理解するきっかけになる。

文化行事も、棚田の管理と切り離せない

丸山千枚田では、伝統行事の「虫おくり」も続いている。稲作に関わる害虫を遠ざけ、豊かな実りを願う地域の行事として受け継がれてきたものだ。

虫おくりは、観光向けの催しとしてだけ捉えるより、農作業と地域の信仰、季節の区切りが結びついた営みとして見るほうがわかりやすい。棚田では、農業技術と地域行事が別々に存在しているわけではない。稲を育て、田を守り、地域で実りを願う時間のなかに、行事も位置づけられている。

棚田の景観を支えるのは、石垣や水路の技術だけではない。そこに人が集まり、農作業の節目を共有し、土地にまつわる行事を受け継ぐことも、地域の記憶を保つ力になる。虫おくりが続いていることは、丸山千枚田が景観として保存されているだけでなく、農地として、また地域の営みの場として受け継がれていることを示している。

1999年7月には、農林水産省の「日本の棚田百選」に選定された。2012年には、日本ユネスコ協会連盟の「プロジェクト未来遺産」にも登録されている。こうした評価は、丸山千枚田の景観だけでなく、地域による保全活動や文化の継承にも光を当てるものだ。

ただし、認定や登録そのものが棚田を維持してくれるわけではない。約1,340枚の田を保ち続けるには、保存会の作業、オーナー制度による外部参加者、行政や公社の支援が継続して機能する必要がある。

棚田の保全は、何かひとつの方法で解決できるものではない。住民の知識、制度、資金、農作業への参加、景観を見に来る人の関心。そのどれかが欠ければ、仕組みは弱くなる。丸山千枚田が現在まで残っているのは、複数の支えを組み合わせてきたからである。

四季が織りなす絶景:丸山千枚田を訪れるべき時期と見どころ

丸山千枚田の見どころは、いつ訪れても同じではない。田に水が入っているか、稲が育っているか、収穫を終えているかによって、石垣の見え方も斜面の色も変わる。

同じ場所を見ても、季節によって主役が変わる。春は水と空、夏は稲の緑、秋は実りの色、冬は石垣と地形。棚田の絶景は、完成した一枚の絵というより、農作業の進行に合わせて姿を変える風景である。

春:水鏡が斜面をつなぐ時期

田植え前の注水期には、田面に水が張られる。4月から5月にかけては、水面が空を映し、石垣の段差を際立たせる時期だ。

約1,340枚の小さな田に水が入ると、斜面全体に細かな反射が生まれる。平地の大きな水田のように一枚の水面が広がるのではなく、石垣に区切られた水面が段ごとに並ぶ。その不規則さが、丸山千枚田らしい景観をつくる。

この時期に注目したいのは、水面だけではない。田と田の間にある石垣、水を導く水路、斜面の高低差も見えやすい。水が入ることで、棚田が単なる段々の土地ではなく、水を受け渡す構造であることがわかる。

風の弱い日には、水面に空や周囲の緑が映り、斜面の細かな区画が一段と見やすくなる。天候によって表情が変わるため、晴天だけでなく、薄曇りの日の柔らかな反射にも丸山千枚田らしさがある。

夏:稲の成長と斜面の立体感

夏になると、田は緑に覆われる。稲の成長によって水面は見えにくくなるが、その代わりに段ごとの高低差が強調される。

標高90メートルから250メートルにかけて広がる斜面では、同じ緑でも区画ごとに表情が異なる。日当たりや水の状態、田植えの進み方によって、色の濃淡が生まれることもある。

夏の丸山千枚田では、石垣を探すように眺めるのも面白い。稲の間から見える石の列は、植物に覆われた斜面のなかで、人工的な線を描く。遠くからは緑の景色に見えても、近くで見ると石と土と稲が重なった複雑な構造になっている。

日差しの強い時間帯は、稲の葉がつくる陰影によって段差がわかりにくくなることもある。景観をじっくり見るなら、斜面全体を眺めたあと、石垣や水路の位置を部分的に追っていくとよい。棚田は遠景と近景で見えるものが変わる。

秋:黄金色の稲と収穫の時間

秋は、稲穂が黄金色に変わる季節である。斜面に沿って並ぶ田が色づくと、丸山千枚田は春や夏とは別の景観になる。

ただし、秋の美しさは、収穫を迎えた農地の姿でもある。稲穂が実るまでには、田植え、水管理、草刈り、害虫への対応など、複数の作業が積み重なっている。黄金色の斜面は、自然に色づいた風景ではなく、農作業の結果として現れる。

稲の色は、田ごとに少しずつ異なる。斜面の高さや日当たり、植え付けの時期によって、緑が残る区画と黄金色に変わった区画が混ざることもある。その違いが、棚田を一枚の均質な風景ではなく、複数の田が同時に動く農地として見せてくれる。

丸山千枚田では、稲作に関わる伝統行事として虫おくりも受け継がれている。行事の時期を収穫後のものと一律に捉えるのではなく、稲作と害虫をめぐる地域の祈り、文化の継承として見るほうが、実際の意味に近い。景観を見るだけでなく、棚田が現在も農地として使われていることを感じやすい季節である。

冬:石積みの輪郭を読む

冬は稲がなくなり、石垣や畦の形が見えやすくなる。落葉した雑木林の向こうに、段状に積まれた石の輪郭が浮かび上がる。

積雪は少ないものの、霜や朝霧によって石垣が白く見えることがある。春や夏のような華やかさは控えめだが、棚田の構造をじっくり見るなら冬も適している。

田面に稲がないからこそ、斜面の傾きや石垣の高さ、水路の位置を確認しやすい。丸山千枚田を景観としてだけでなく、石積みの技術や農地の構成から見たい人にとっては、冬の姿にも価値がある。

遠くから見たときには、冬の棚田は静かな斜面に見える。しかし、石垣の一段一段を追っていくと、田の大きさや境界の不均一さが現れる。小さな区画をつなぐために、斜面に多くの手が加えられてきたことがわかる季節だ。

季節ごとの特徴をまとめると、次のようになる。

時期主な見どころ注目したい要素
水田に映る空と光水鏡、石垣、水路
緑に覆われた斜面稲の濃淡、高低差、飛び渡り
黄金色の稲穂と収穫の風景稲の実り、虫おくり、農作業
輪郭が際立つ石積み野面積み、畦、斜面の構造

訪れる時期を決めるときは、どの景観を見たいかを先に考えるとよい。水鏡を目当てにするのか、稲の緑を楽しむのか、黄金色の棚田を見たいのか。それとも、草木が少ない時期に石垣の構造を読みたいのか。丸山千枚田の絶景は、季節によって別の表情を持っている。

石積みの風景から見える、再生の論理

丸山千枚田の歴史には、三つの大きな転換点がある。

第一は、慶長6年、1601年の検地である。2,240枚という田の数は、その時点ですでにこの地域で斜面が農地として利用されていたことを示す重要な記録だ。ただし、この年を棚田の築造開始時期とみなすことはできない。記録が示しているのは、あくまで1601年当時の田の規模である。

第二は、1978年の銅鉱山閉山だ。地域の経済基盤が変わり、若年層の流出や高齢化、農業の収益性低下が重なった。田を維持する人が減り、かつて2,240枚と記録された棚田は、1990年代初頭には530枚まで縮小した。

第三は、1993年の保存会発足と、1994年の条例制定である。地域住民の労働と制度の両方によって、崩壊の流れが反転した。4年間で810枚を復元し、現在は約1,340枚の棚田が維持されている。

ここで重要なのは、過去の数字をそのまま取り戻すことだけが再生ではないという点だ。2,240枚という記録は、丸山千枚田の歴史を知るうえで欠かせない。しかし、現在の人口や担い手、土地利用を考えれば、すべての区域を同じ状態に戻すことが最善とは限らない。

杉植林地となった区域など、復元が難しい場所には手をつけず、維持可能な範囲で棚田を残す。これは規模を妥協したというより、保全を一時的な事業で終わらせないための判断である。復田した田を将来も耕作し、石垣を補修し、水を管理できる範囲で再生する。その現実感こそ、丸山千枚田の取り組みを持続させている。

石垣に目を向けても、同じ考え方が見えてくる。野面積みは、自然石を地形に合わせて使う。飛び渡りは、農作業の足場をつくる。胴木は、石と地盤の間を調整する。サツキは、根によって土を固定する。

これらは、自然を完全に変えてしまう技術ではない。石、木、植物、水の性質を利用しながら、斜面の不安定さと折り合いをつける方法である。石垣が長く残ってきた理由は、頑丈な材料だけでつくられているからではない。土地の動きに合わせて、複数の素材と作業を組み合わせてきたからだ。

丸山千枚田の絶景は、保存された過去ではない。石を積み直し、田を耕し、水を通しながら、現在も更新されている農地の風景である。

丸山千枚田を訪れるとき、目の前の景色を「昔ながらの日本の原風景」として眺めるだけでは、少しもったいない。斜面に並ぶ約1,340枚の田は、かつて2,240枚と記録され、530枚まで減り、そこから再び復元されてきた。その変化のすべてが、石垣と水路と農作業の跡に刻まれている。

標高90メートルから250メートルまで続く斜面。その高低差を受け止める石積み。住民の手で復田された田。地域外から保全を支えるオーナー制度。稲作とともに受け継がれてきた虫おくり。四季ごとに変わる水と稲の表情。

丸山千枚田の石積みが語るのは、過去の技術だけではない。失われかけた農地を、無理なく、しかし確実に次の世代へ渡そうとする現代の選択でもある。美しい景観の背後にある崩壊と再生の過程を知れば、棚田の一枚一枚が、より具体的な重みを持って見えてくる。

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よくある質問

丸山千枚田の田んぼの数は現在いくつですか?
現在は約1,340枚の田が維持されています。
なぜ丸山千枚田は一時期530枚まで減ってしまったのですか?
1978年の銅鉱山閉山による産業の衰退や、後継者不足、高齢化、減反政策などが重なり、棚田を維持する力が失われたためです。
丸山千枚田の石垣にはどのような特徴がありますか?
自然石をそのまま積み上げる「野面積み」が用いられ、作業道となる「飛び渡り」や地盤を調整する「胴木」、土を固定する「サツキ」などが組み合わされた複合構造になっています。
丸山千枚田オーナー制度とはどのような仕組みですか?
年会費を支払い、農作業体験に参加しながら収穫された米を受け取ることで、地域外から棚田の維持に必要な人手と関心を確保する仕組みです。
丸山千枚田を訪れるのに適した時期はいつですか?
春は水鏡、夏は稲の緑、秋は黄金色の稲穂、冬は石垣の構造と、季節ごとに異なる表情を楽しめます。

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