
こうして、静岡県静岡市の久能山東照宮と、栃木県日光市の日光東照宮という二つの聖地が成立した。
では、徳川家康の遺骨は今どこに眠っているのか。久能山東照宮なのか、それとも日光東照宮なのか。両方を訪ねると、それぞれに家康の墓所とされる場所があり、どちらが「本物」なのかという疑問が自然に浮かぶ。
この問題は、単なる観光地の見どころ比べではない。家康が死後の祭祀をどのように設計したのか、徳川幕府がその意志をどう受け継いだのか、そして「遺骨」と「神霊」を当時の人々がどう区別していたのかに関わる、江戸時代初期の大きな歴史問題である。
久能山と日光は、どちらか一方だけが家康の聖地なのではない。遺体を納める場所と、神霊を広く祀る場所が、最初から分けて考えられていた。
遺言が導いた二つの聖地:久能山から日光への遷座
家康の墓所をめぐる話は、死後の移動から始めるよりも、まず本人が残した祭祀の方針から見た方がわかりやすい。
家康は臨終に際して、死後の扱いを一か所にまとめなかったとされる。遺体は久能山に納め、葬儀は江戸の増上寺で行い、位牌は三河の大樹寺に置く。そして一周忌を過ぎた後、日光山に小さな堂を建てて神霊を勧請する。死後の役割を、場所ごとに分けた設計である。
整理すると、次のようになる。
- 遺体の埋葬地は久能山
- 葬儀を行う場所は増上寺
- 位牌を置く場所は大樹寺
- 神霊を勧請する場所は日光山
ここで重要なのは、家康が死後の祭祀を「一つの墓にすべてを集める」形で考えていなかった点だ。遺体、葬儀、位牌、神霊の祭祀は、それぞれ別の意味を持つ。現代の感覚では、墓と位牌と神社が離れていると少し複雑に見えるが、当時の宗教観や武家の祭祀を踏まえると、必ずしも矛盾した配置ではない。
家康が亡くなった駿府城から久能山までは遠くない。久能山は駿河湾を見下ろす場所にあり、家康が晩年を過ごした駿府とのつながりも深い。家康にとって、久能山は単に空いていた山を選んだのではなく、晩年の居所に近く、駿河の地を望む終焉の場所として意味を持っていたと考えられる。
元和2年4月17日に家康が亡くなると、その遺体は久能山へ運ばれ、土葬された。少なくともこの時点では、遺体を久能山に納めることが最初の埋葬として実行されたと理解されている。
問題になるのは、その後の日光への移動である。
日光山に神霊を迎えることを「勧請」と見るなら、久能山の遺体はそのまま残り、日光には家康の神霊が分けて祀られたことになる。一方、日光へ運ばれた神柩の中に遺骸、あるいは遺骨の一部が納められていたと考えるなら、日光は単なる分祀先ではなく、改葬後の墓所という性格を帯びる。
つまり、二つの東照宮の違いは、建物の豪華さや知名度だけではない。家康の死後に行われた祭祀を、「神霊の分祀」と見るか、「遺骸を伴う移葬」と見るか。その解釈の違いが、遺骨の所在をめぐる論争につながっている。
1,300人の大行列:21日間をかけた神柩移送の全貌
日光東照宮の成立を語るうえで欠かせないのが、元和3年(1617年)に行われた久能山から日光山への移動である。
出発は元和3年3月15日、到着は同年4月4日。移動には約21日間が費やされ、神柩に従った人数は約1,300人に及んだとされる。これは、家康の遺品を静かに運ぶような小規模な移動ではない。徳川家康を神として迎える国家的な儀礼であり、徳川家の威信を示す大行列だった。
当時の移動は、現代のように道路や交通機関が整っていたわけではない。神柩を護衛し、供奉する人々を動かし、宿泊や食事を整え、通過する地域での儀礼も行わなければならない。21日という期間には、単純な距離だけでは測れない準備と儀礼の時間が含まれていた。
行程は陸路を中心としながら、水運も組み合わせた複合的なものだったと考えられている。久能山から日光までは、現在の地図で直線距離を測れば済む話ではない。大量の人員と神聖な荷を安全に運び、沿道の諸勢力に徳川家の存在を示しながら進む必要があった。
移送は宗教儀礼であり、政治的な行列でもあった
この大行列には、宗教的な意味と政治的な意味が重なっていた。
徳川家康は、関ヶ原の戦いを経て幕府を開き、江戸時代の政治秩序を形作った人物である。家康の死後、二代将軍の秀忠が政権を安定させていくには、家康の権威をどのように継承するかが大きな課題になる。日光への神霊の移動は、家康を祀るための儀礼であると同時に、徳川将軍家の正統性を広い地域に示す機会にもなった。
沿道では、諸大名や寺社が行列を迎え、供奉や奉迎の儀礼に関わった。家康を祀る神柩が各地を通過することは、徳川家の支配がどこまで及んでいるのかを目に見える形で示すことでもあった。
この意味で、1617年の移動は、遺骨の所在を考えるための手がかりであると同時に、江戸幕府の統治を考えるための政治史的な出来事でもある。
日光山が選ばれたことにも、地理的・政治的な理由があった。日光は古くから山岳信仰の聖地であり、関東の北方に位置する。江戸からも近く、将軍家が特別に保護する場所として整備しやすかった。家康の神霊を日光に祀ることで、徳川家の祖を関東の守護神として位置づける意味が生まれたのである。
日光東照宮は、この移動を起点として整備されていく。現在のような絢爛な社殿群が最初から存在したわけではない。元和年間に始まった祭祀施設は、三代将軍家光の時代に行われた寛永の大造替によって、大規模な社殿群へと姿を変えていった。
「勧請」か「改葬」か:遺骨の所在を巡る歴史的論争
ここで、日光東照宮と久能山東照宮の関係を整理したい。
久能山東照宮は、家康の死後、最初に遺体が納められた場所である。家康の遺言に沿って、遺体を久能山へ埋葬したという流れを重視すれば、家康の遺骨は現在も久能山に眠っていると考えるのが自然になる。
これに対して日光東照宮では、元和3年に神柩が久能山から運ばれたことを重視する。神柩を運ぶという行為が、神霊だけを移すものだったのか、それとも遺骸や遺骨を伴っていたのか。この点が、日光に家康の遺骨があるとする見方の中心になる。
論点を単純化すると、次のように整理できる。
| 論点 | 久能山を重視する見方 | 日光を重視する見方 |
|---|---|---|
| 家康の遺骨 | 最初の埋葬地である久能山に残る | 神柩とともに日光へ移された、または一部が移された |
| 元和3年の移動 | 神霊を分けて祀るための勧請 | 遺骸を含む移送、または実質的な改葬 |
| 重視するもの | 家康の遺言と最初の埋葬 | 神柩の移送記録と日光での祭祀 |
| 墓所の意味 | 家康の遺体が最初に納められた墓 | 将軍家が公式に整備した家康の墓所 |
| 現在の位置づけ | 久能山東照宮の廟所 | 日光東照宮の奥社、宝塔周辺 |
久能山側の理解では、家康はまず久能山に埋葬され、その後に日光へ神霊が勧請された。勧請とは、ある神社の神を別の場所でも祀るために、その神霊を迎えることを指す。したがって、日光に家康を祀ることと、久能山の遺体を移すことは別の行為だったということになる。
一方、日光側を重視する見方では、神柩の移動が単なる分霊の儀礼ではなかった可能性に注目する。日光に到着した神柩を、家康の神霊だけを納めたものと見るのか、遺骸に関わる何かを伴ったものと見るのかで、日光の性格は大きく変わる。
ただし、現在のところ、どちらかの説を決定的に証明する物的証拠が公開されているわけではない。古い記録には、当時の祭祀や移動を示す記述が残るものの、現代の鑑定書のように、遺骨の所在を一義的に確定させる内容ではない。
また、当時の人々にとって、神霊と遺骨を現代人と同じように明確に区別していたとは限らない。神として祀るために必要なものが、遺骸そのものだったのか、神霊を象徴する神体だったのか。祭祀の場面では、それらが重なり合って理解されることもあったはずだ。
「家康の墓はどちらか」という問いは、現代の墓地のように、遺骨が一か所にあるかどうかだけで判断できない。埋葬地、廟所、神霊を祀る場所、将軍家が公的に整備した聖地。それぞれの意味が異なるため、何を墓と呼ぶかによって答えが変わってしまうのである。
聖域としての墓所:現代も明かされない家康の眠る場所
家康の遺骨がどこにあるのかを科学的に確定するには、久能山と日光の廟所を調査し、内部を確認する必要がある。しかし、両方の場所は単なる史跡ではなく、現在も信仰の対象になっている。
久能山東照宮の廟所は、境内の中でも特別な場所に位置する。家康が埋葬されたとされる場所は、参拝者が自由に内部へ入って調べられるような場所ではない。日光東照宮の奥社にある宝塔も同じで、家康を祀る聖域として扱われている。発掘や開封を行えば、歴史上の疑問には近づけるかもしれないが、その行為自体が文化的・宗教的に大きな意味を持つ。
しかも、家康の死からは400年以上が経過している。仮に調査が実施されたとしても、遺骨が完全な状態で残っているとは限らない。土壌や湿度、埋葬方法、後世の改修など、保存状態に関わる条件は複数ある。遺骨が確認できなかったとしても、そこに埋葬されていなかったと即断できるわけではない。
久能山東照宮では、寛永17年(1640年)に廟所が石造宝塔へと改められた。家康の死後、時代が進むにつれて廟所の形が整えられ、現在の参拝者が見る場所も、1616年当時のままではない。
日光東照宮も同様である。現在の社殿や奥社の景観は、寛永の大造替によって大きく整備された。家康が亡くなった直後に作られた施設と、現在残る建物との間には、修築や再編の歴史がある。
そのため、現在の建築だけを見て、家康の遺骨がどこにあるかを判断することはできない。建物が後世に改められていることと、遺骨が移されたかどうかは、別々に考える必要がある。
なぜ調査されないのか
調査が行われない理由は、単に技術がないからではない。
第一に、廟所が信仰の対象だからである。家康を神として祀る場所に対して、歴史研究だけを目的に発掘を行うには、宗教上の同意と社会的な合意が必要になる。
第二に、調査によって歴史の謎が必ず解決するとは限らない。遺骨が見つかれば決着に近づくが、見つからなかった場合には新たな解釈が必要になる。後世の改修や埋葬環境を考えれば、調査結果が明快な答えを出すとは限らない。
第三に、墓所の非公開性そのものが、東照宮の信仰を支えてきた面もある。家康の遺骨を直接見ることではなく、そこに家康が祀られているという伝承と祭祀を受け継ぐことが、東照宮の役割になっている。
この事情を踏まえると、遺骨の所在が明らかになっていないことは、単なる調査不足とは言い切れない。聖域を守ることと、歴史的事実を検証することの間に、簡単には埋められない距離があるからだ。
家康の「本物の墓」をめぐる謎は、証拠がないから残っているのではない。聖域を開いてまで答えを求めるのかという、別の問題も含んでいる。
久能山東照宮と日光東照宮、それぞれの歴史的役割
二つの東照宮を比べると、久能山東照宮は家康の死と最初の埋葬に近く、日光東照宮は家康を祀る制度と将軍家の権威に近い。
もちろん、これは完全に分けられるものではない。久能山も東照宮として家康を神格化して祀っており、日光にも家康の墓所とされる場所がある。ただ、成立の経緯と後世の整備を見れば、両者の役割には明確な重心の違いがある。
久能山東照宮は「最初の埋葬地」に近い
久能山東照宮は、家康が亡くなった駿府と深い関わりを持つ。家康の遺体が最初に納められた場所であり、死後すぐに行われた埋葬の記憶を伝える聖地でもある。
境内は久能山の山腹にあり、駿河湾を望む。海側から参道を上る場合は、1,159段の石段を歩くことになる。この石段は単なる移動手段ではない。山に登りながら社殿や廟所へ近づいていく構成は、久能山が持つ山岳信仰の性格とよく合っている。
日本平側からロープウェイを利用すれば、石段を大きく省略できる。短時間で境内に入りたい場合や、足元に不安がある場合には便利だ。一方、久能山そのものを歩いて感じたいなら、海側からの参道には別の価値がある。急な階段を上る負担はあるが、駿河湾を見下ろす場所へ向かう過程まで含めて、久能山の体験になる。
久能山東照宮の魅力は、日光のような大規模な装飾だけにあるのではない。家康が最後に過ごした駿河の土地、最初に遺体が納められた山、そして海を望む廟所という、死と埋葬に近い時間を感じ取れるところにある。
日光東照宮は「徳川家の公的祭祀」に近い
日光東照宮は、家康の神霊を関東の聖地に迎えたことから始まった。のちに大規模な造替が行われ、現在知られている豪華な社殿群が整えられていく。
陽明門や拝殿などの建築、彫刻、彩色は、家康個人の墓所という範囲を超えて、徳川家の権威を視覚化するものになった。そこでは、家康が一人の武将として眠るだけでなく、将軍家の祖として祀られている。
日光の奥社へ向かう道は、表側の華やかな社殿群とは印象が異なる。石段を上り、杉木立の中を進むと、装飾性の高い区域から静かな墓所の空間へ切り替わる。日光東照宮を訪れる際は、陽明門などの建築に目を奪われがちだが、家康の墓所という観点では、奥社まで歩いて初めて全体の構成がつながる。
日光東照宮は、家康を祀る場所であると同時に、徳川幕府が家康の記憶をどのように公的な形へ整えたかを示す場所でもある。
| 比較項目 | 久能山東照宮 | 日光東照宮 |
|---|---|---|
| 所在地 | 静岡県静岡市清水区 | 栃木県日光市 |
| 成立の時期 | 1616年、家康の埋葬後 | 1617年、神霊の勧請後 |
| 歴史的な出発点 | 家康の遺体を最初に納めた廟所 | 家康を関東で祀る新たな聖地 |
| 強く結びつく人物 | 家康の死と二代将軍秀忠の時代 | 三代将軍家光による大造替 |
| 境内の印象 | 山と海、石段、廟所 | 豪華な社殿、彫刻、奥社 |
| 参拝で見るべき点 | 最初の埋葬地としての空気 | 徳川家の公的祭祀と権威の表現 |
| 墓所をめぐる位置づけ | 遺体が残るとする見方が強い | 遺骨または神霊が移されたとする見方がある |
この違いを知っていれば、二つの神社を単純に比較して、片方を本物、もう片方を分家のように扱う必要はない。久能山は家康の死と埋葬に近い場所であり、日光は家康を神として祀る徳川家の制度に近い場所である。
現地で見るなら、墓所だけでなく「配置」を読む
日光東照宮と久能山東照宮を訪れるとき、家康の墓があるとされる場所だけを目指すと、二つの聖地の違いを見落としやすい。
久能山では、海側から山へ上がる地形そのものが重要になる。1,159段の石段は体力を使うが、山腹に社殿と廟所を置く構造を実感できる。久能山東照宮は、社殿だけを切り取って見るより、駿河湾との位置関係を含めて見る方が理解しやすい。
日本平側からロープウェイを利用する場合は、山を越えて境内に入る動線になる。移動の負担が少なく、建築や廟所を中心に見学したい人には向いている。反対に、海側の表参道は歩く時間が長くなるため、暑い時期や雨の後は足元に注意したい。
久能山下の周辺には駐車場があるが、週末や繁忙期は混雑しやすい。日本平側のロープウェイ利用を考える場合も、駐車場から乗り場までの移動時間を含めて計画したい。山の天候は変わりやすく、ロープウェイの運行状況が変わることもあるため、出発前に公式情報を確認するのが確実である。
日光東照宮では、表側の社殿群から奥社までの距離と高低差を見ておく必要がある。境内は見どころが多く、門や社殿を一つずつ見ていると時間が過ぎる。奥社まで向かう場合は、建築を見る時間だけでなく、石段を歩く時間も必要になる。
久能山と日光を同じ旅で見る場合
静岡の久能山と栃木の日光は、地図上で見ても大きく離れている。両方を同日に訪れる計画は、移動だけで一日が終わりかねず、観光としては現実的ではない。
それぞれを別の旅程に組み込む方が、結果的に家康の歴史を深く追える。
久能山を中心にするなら、静岡市内や日本平、駿河湾沿いの観光と組み合わせやすい。久能山東照宮を訪れた後に、駿府城跡など家康の晩年と関わる場所をたどると、家康が最後に過ごした駿河の土地を立体的に見られる。
日光を中心にするなら、日光山内の社寺や周辺の自然景観と合わせて巡ることになる。日光東照宮は建築の密度が高く、社殿群だけでも見学に時間がかかる。東照宮の奥社まで歩き、家康の墓所とされる場所を確認するなら、急いで次の観光地へ移動するより、境内全体の構成を読む時間を取った方がよい。
順番をつけるなら、久能山を先に見ると、家康の最初の埋葬地から日光へ神霊が迎えられた流れを追いやすい。日光を先に訪れても問題はないが、その場合は、華やかな社殿群から受ける印象が強くなり、久能山との役割の違いを後から補う形になる。
「家康の墓はどこか」という問いへの答え
徳川家康の遺骨がどこにあるのかという問いに、歴史資料だけから断定的な答えを出すことはできない。
最初の埋葬地を重視すれば、家康の遺体は久能山に眠っていると考えられる。神柩の移送を重視すれば、日光へ遺骸や遺骨の一部が移された可能性を考えることになる。さらに、家康を神として祀る祭祀の観点に立てば、日光もまた家康の墓所に準じる重要な聖地となる。
結局のところ、現代の墓地のように、遺骨が一か所にあることだけを基準にすると、久能山と日光の関係を正しく捉えられない。
久能山東照宮は、家康の死と最初の埋葬に結びつく場所である。日光東照宮は、家康の神霊を迎え、徳川家の祖として公的に祀った場所である。どちらも家康の死後に作られた祭祀の一部であり、片方が存在するためにもう片方が不要になる関係ではない。
「本物の墓」を一つに決めるより、家康が死後の祭祀を分散させたこと自体に注目した方が、歴史の流れには忠実である。遺体を納める場所、神霊を勧請する場所、位牌を置く場所、将軍家の権威を示す場所。それぞれを別に設けたからこそ、家康は死後も複数の土地で祀られ続けた。
久能山東照宮では、家康が最初に眠った場所としての静けさを感じることができる。日光東照宮では、家康が徳川家の祖神としてどのように位置づけられたのかを、壮大な社殿と奥社の構成から読み取れる。
だから、日光東照宮と久能山東照宮の違いを知る最も確かな方法は、どちらか一方に「本物」という判定を与えることではない。久能山から日光へと続いた祭祀の移動を追い、二つの場所が異なる役割を担ってきたことを現地で確かめることである。
家康の遺骨がどこにあるのか。その答えは、今も確定していない。けれども、二つの東照宮がともに家康の墓所として語られてきた理由は、歴史の中に残っている。久能山と日光を両方見ると、「どちらか」ではなく、「どちらも」が家康の死後を形作ってきたのだとわかる。
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